銀座より道、まわり道
文・山口正介 イラスト・駿高泰子
Text by Shosuke YAMAGUCHI
Illustration by Yasuco SUDAKA
銀座の大通りのあちらこちらを逍遥すること七十余年になるというのに、このお店を書き忘れていたとは、なんとしたことだろう。
中央通りの5丁目に、記憶しているかぎり、そのままの姿で毅然として屹立する東京鳩居堂である。お店というには風格がありすぎる。店舗というのも変か。業態は文房具店ということになるだろう。1階は和風小物などが置かれ、2階は主に書道の諸道具という品揃えである。
僕にとっての鳩居堂に関する思い出は、幼児期に始まる。はじめて店内に入ったのがいつのことだったか記憶にない。銀座に出ると、必ず鳩居堂に立ち寄る両親に連れられて入店したのだった。
両親の主な目的はポチ袋を購入することだ。正確に記すと不足分を補充するため、ということになる。父、瞳は何かというと世話になった人に、御祝儀として幾ばくかをポチ袋に入れて手渡すのだった。
日本にはチップの習慣がないので、飲食店での支払いは気を遣わなくてもいいから楽だ、という方がいらっしゃる。僕にいわせれば、いや父、瞳にいわせれば、日本ほど洗練されたチップのシステムが発達している国はない、ということになる。
日本におけるチップとは心付けのことで、すなわちポチ袋に入れて、それとなく手渡すのである。これをすべての飲食店、タクシーの運転手、各種の配達の方に対して行うので、ポチ袋の消費量は膨大なものになる。
瞳が敬愛し、尊敬していたドイツ文学の高橋義孝先生は、御祝儀遣いの達人であった。タクシーから下りるときに、料金のほかに、「タバコ、タバコ」といいながら素早くチップを手渡すのだった。このタイミングとテクニックが難しい。
わが家では、大変な枚数のポチ袋が必要であり、その品質や意匠にもこだわるので、いきおい洒落たものが並んでいる鳩居堂で買い求めることになる。
近年、鳩居堂はインバウンドでにぎわっている。千代紙を使った手芸も国際的な流行の兆しがあり、1階の売り場には丁寧に漉かれた色とりどりの和紙が並び、2階には様々な筆、硯のコレクションが陳列されている。書道を志す方ばかりではなく、古くからの冠婚葬祭の決まりごとに接したいという方々で賑わうこととなった。
僕としては、最近、手紙やハガキを出すときに落款を押すことにしているので、印肉を購入することが多いだろうか。ポチ袋の流暢な使用法に関しては、未だに修業中といったところだ。
やまぐち しょうすけ
作家、映画評論家。桐朋学園演劇コース卒業。劇団の舞台演出を経て小説、エッセイの分野へ。近著に『父・山口瞳自身/息子が語る家族ヒストリー』(P+D BOOKS 小学館)。
*掲載情報は2024年7月号掲載時点のものです。
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