年代の東京で都知事の要職にいた。都庁の新宿移転を推し進め、1990年(平成2年)、丹下健三の設計で完成させる。急ピッチで工事が進む都庁舎と空き地を走る自転車。ここでも石元は、慌ただしく代謝を繰り返す都市の不条理を見事にとらえている。 鈴木は、1970年(昭和45年)の万博で東京開催を主張したが敗れ、その悲願を達成しようとしていた。丹下健三を諮問機関のトップに据え、「世界都市博覧会(都市博)」を構想する。丹下は、大阪万博で構想した未来都市を発展させ、臨海副都心計画として実現化すべく動いた。開発が進む現実の都市をも展示とし、博覧会場のインフラが、閉幕後の都市の骨格となるという先鋭的な企画であった。 しかし、バブル景気が終焉を迎えると同時に開発は停滞する。1995年(平成7年)の都知事選では都市博開催が争点となり、鈴木が落選、新知事の青島幸男が中止を決断し、都は巨額の損失を抱えた。既に着工していた、ゆりかもめ、臨海鉄道線は開通し、翌年には、丹下健三83歳の作「フジテレビ本社ビル」が完成する。石元は、その都市博の中止が決定した後のお台場の風景を撮った。その構図にも、広島、沖縄、新宿と同様、上下に、変わりゆくものと取り残されていくものとが対峙されている。あたかも「日本はいったい何をしたいのか」と問いかけているかのようだ。ここお台場も会場に東京オリンピックが開催され、新時代の幕が開く。立ち止まって、振り返らなければならない時かもしれない。 戦後復興、高度経済成長、バブル経済とその崩壊後の失われた20年、そして平成の終焉。都市と建築はこの壮絶な時代に、人々の欲望と期待に応え翻弄されるように変貌していった。石元が遺した都市と建築をとらえた写真からは、その冷ややかな眼差しに静かな警鐘を聞くことができる。阪万博で事務総長を務めた鈴木俊一は、バブル景気で急激な変貌を遂げようとしていた80東京都心は何処へ?60《フジテレビ本社ビル》1996年頃撮影 設計:丹下健三|1996年竣工高知県立美術館蔵《東京 山の手線・29》1983~85年撮影高知県立美術館蔵《東京都庁舎》1990年頃撮影 設計:丹下健三|1991年竣工高知県立美術館蔵大
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