SIGNATURE2016年12月号
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船の仕事を退めてから、父が経営していたダンスホールにはコンクリートなのにわざわざ丸い窓があちこちにあった。 「どうしてこの建物の窓は丸いの?」と少年の私が聞くと、母は笑って、 「お父さん、船が、船の仕事が大好きだったから、その思い出なのよ」と応えた。小説家になり、父のことをテーマに小説を書くことになり、そこで私は、父が、母の弟を助けるために、戦場であった韓国へ一人で渡り、叔父を救出した事実を知った。これは拙著『お父やんとオジサン』(講談社刊)に詳しく書いたので、ここではよすが、その冒頭の一節に、若い母が幼い私を連れて桟橋まで散歩へ行き、しばらくじっと沖の水平線を見ているシーンを書いた。戦争で離れ離れになった姉弟、母の想いを描写した。彼女にとって近くて遠い国だった。少年の私は、大きな体躯の父に、或る時、尋ねたことがあった。 「あの国は遠いの?」 「なーに、汐が良ければ一晩さ」若い父はこともなげに言った。       9一九五〇年山口県防府市生まれ。八一年、文壇にデビュー。小説に『乳房』『受け月』『機関車先生』『ごろごろ』『羊の目』『少年譜』『星月夜』『お父やんとオジさん』『いねむり先生』『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』など。エッセイに、美術紀行『美の旅人』シリーズ、本連載をまとめた『旅だから出逢えた言葉』などがある。最新刊は、累計148万部を突破した大ベストセラー「大人の流儀」シリーズ、待望の第6弾『不運と思うな。大人の流儀6』。写真・岡田康且Shizuka Ijuin

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