SIGNATURE2016年12月号
4/68
Number 98 アミなどである。上海、香港、仁川、釜山、メルボルン……数え出したらきりがないほどだ。今こうして港町の名前を書いていても、それぞれの町で過ごした時間が、夜半の船笛の音とともにあざやかによみがえる。私は以前述べたように、幼少の頃から、お手伝いさんや、母に連れられて桟橋や浜へ何度も散歩に行き、野球少年になってからも、毎朝、犬と海岸までランニングをしていた。今日、上京するという朝も海を見に行った。私が初めて見た大きな港町は、神戸だった。父が神戸で事故に遭って入院し、見舞いがてら母と神戸へ行った。少年の私は驚いた。生家のある港にも外国船(台湾から)は入っていたが、港に停泊する見渡す限りの船舶は勇壮であった。中国人街、商社の洋館が並ぶ大通りなどすべてが港からこの街に入って来た人々が造ったものだった。港町には、そこだけが持つ独特の雰囲気、情緒のようなものがある。エキゾチックな面も勿論あるが、それだけではない特有な空気感が漂っている。船に乗って入って来た人たちだけではなく、港に住む人々にも、どこかお洒落で、自由な香りがする。さらに言えば、港町に立ち並ぶ各店々に入っても、扱っている商品がやはり違っている。夕暮れになり、レストランや酒場の灯が点りはじめると、それは歴然とする。神戸で言えば、洒落たバーが何軒もあり、しかも長く続いている店が多い。店の壁にさりげなく、やって来た外国人が残したものや、海外からの絵葉書が貼ってあったりする。これは横浜も同じだし、バルセロナやリスボン、サンフランシスコの酒場でも同じような風景を見た。それともうひとつ良い港町は、良い河の出口であることが多い。これは昔、河が船の出入りする安全な場所であったことが理由であるが、河の水と海の水が交わる所が交易の目安であったことも関係している。横浜と書いたが、私は上京し、身体をこわして野球を断念してから、すぐに東京を離れて横浜で暮らした。最初の小説を書いた三十歳代は港町ではないが、逗子の海の前にあるちいさなホテルに八年間住んでいた。夜明け方、机から離れて窓辺に寄り、窓ガラスに映る水平線を見ていると、うへ行き、そこで出逢った何かを人生の友にして生きて行った方がいいのでは……。と何度も考えた。海の風景には、それを見つめる人々の胸の隅を、どこかへ誘う魔力があるのかもしれない。以前、何度か訪れた、タヒチ、ニューカレドニア、ハワイ諸島の島々の、海の歴史を調べてみると、彼等の祖先が何千キロの海の旅をして太平洋を小舟で乗り出した、その原動力がわからぬでもない。帰っていて、港々の話を聞いたりした。父は将来は海外航路を往く船を持ちたかったらしいが、鳴門の沖で自社の船同士が衝突し、以来、船の夢を断念した。私はまだ子供で、その時の事情がよくわからなかったが、̶̶こんなことはもうよしにして、明日にでも荷物をまとめ、海のむこの父は、元気な頃は船会社を経営し、その船で瀬戸内海を往来する荷を運んでいた。たまに上陸すると、生家の別の棟に乗務員がA Port Town 8
元のページ
../index.html#4