SIGNATURE2016年12月号
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ちしつタリア製ペルソールの黒縁メガネに、シルバーが混じる顎の鬚。人懐っこい笑顔には、茶目っ気と不敵さが同居する。明快でトーンの高い語り口には、聴く人を釘付けにする独特の節回しがある。正体を知らずに会ったら、気鋭の政治家かアクター、あるいは社会活動家と勘違いしそうだ。いずれにせよ時代の変革者とは、こういう素養を持った人なのだろう。去る6月、ニューヨークで開催された2016年度「世界ベストレストラン50」のアワードで、イタリアのレストランとして初の1位に輝いたマッシモ・ボットゥーラは、いま世界で最も影響力のある料理人として、誰もが認める存在になった。1位になって変わったことは? めて尋ねたら「自分に関するメディア記事の見出しのほぼすべてに、〝世界一の〟と形容句がつくようになった」と冗談めかして微笑む。しかし、すぐに真顔でこう切り返す。「アワードで1位になることが、自分の目的ではないんだ」。実は3年ほど前にも同じような質問を彼に投げかけたが、答えは一貫している。「1位になることの価値――それは自分が変革したいテーマが、より多くの人に伝えやすくなることだ」。メディアを大切し、その特性を知悉している彼らしい考えだと思う。マッシモ・ボットゥーラは、1962年にイタリアのエミリア゠ロマーニャ州のモデナに生まれた。1980年代後半に、地元で売りに出ていたトラットリアを購入したことが、料理の世界に入るきっかけになった。意外なことにマッシモは若いころ、シェフではなく法律を学ぼうと研鑽を重ねていたという。彼とあらた『Refettorio Ambrosiano(アンブロシアーノ食の料理へのアプローチが極めてロジカルなのは、この経験が少なからず影響しているのだろう。もっとも一度筋道を立てたら、時に大胆とも思える行動力を発揮するのは、彼ならではの流儀に違いない。転機は1995年、同じくモデナに『オステリア・フランチェスカーナ』を開くと、徐々に頭角を現す。オープン当初は、専門家からの評価はさんざんだったとマッシモは振り返るが、地元の素材や食文化の伝統に、独自の解釈で数々の変革をもたらし、次第に評価を上げていった。2011年、エミリア゠ロマーニャ州で初となるミシュラン3つ星の獲得を皮切りに、料理に関するあらゆる評価やランキングの頂点を手に入れる。彼はその活躍によって、世界の人々がイタリア料理に描くステレオタイプのイメージはもちろん、シェフという職業の概念までも変革しつつある。シェフの枠を超えた活動として、世界から一躍注目されたのが、2015年夏のミラノ万博。〝捨てられる食材〟で料理を出す堂)』の設立だろう。このプロジェクトは、万博で廃棄される食材を有名シェフたちに料理してもらい、ミラノの貧しい人たちや子どもたちに無料で提供するというもの。マッシモ自らが声をかけ、レネ・レゼピやフェラン・アドリア、アラン・デュカス、日本からは成澤由浩や、『ブルガリ イル・リストランテ』のルカ・ファンティンなど、錚々たるメンバーが駆けつけた。結果的に大成功を収め、多くのメディアが取り上げることとなった。マッシモがその生涯をかけて取り組んでい イ 日々、世界を慌ただしく飛び回るマッシモ・ボットゥーラが先ごろ東京・銀座にやって来た。『ブルガリ イル・リストランテ ルカ・ファンティン』で開催された美食イベント「Epicurea(エピクレア)」に参加するためだ。旧知のシェフであるルカ・ファンティンと、新作を披露し合う特別な料理会だった。 マッシモの料理は相変わらず驚きの連続だったが、なかでもレンズ豆をキャビアに見立てた一皿は、彼らしいウィットと理念が詰まっていた。鰻の出汁で炊かれたレンズ豆は、鰻由来のミネラルと塩気と野性味を感じられ、五感に深く訴えかけてきた。鰻はマッシモの故郷を流れるポー川支流域の伝統食材でもある。彼はこの料理を通じて故郷へのオマージュと日本で料理することへの歓びを伝えたかったと語る。イエロー イズ ビューティフルレンズ豆 オールモスト ベター ザン ベルーガ14
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