SIGNATURE2016年08_09月号
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苦しそうにうつむかれたことがあった。大丈夫ですか、先生、どこか苦しいのですか、と声をかけても、脂汗を流して苦しそうにされていた。私はあわてて先生をよく知る先輩に急変を知らせると、今どこらあたりを電車は走っているかね、と訊かれ、富士市ですが、と返答すると、窓から富士山が見えるかね、と言われ、はい、と言うと、それだよ、先生は富士山が怖いんだよ。私は思わず、えっ、富士山が怖い、と言うと、富士山だけじゃない。三角錐がダメなんだ、な〜に大丈夫だ。見えなくなりゃ、元気になるよ、と電話を切られた。その時もずっとうつむいて窓の外を見ようとしない時間の長さに、富士山は裾野がひろいと再認識した。ギャンブルの神様とも呼ばれた人にも苦手なものがあるんだと苦笑した。数年前、明治の俳人、歌人の正岡子規と文豪、夏目漱石の友情を描いた小説を執筆した。二人の友情は、書簡集の文面の行間や、俳句を通してのやりとりから伝わるのだが、今と違って友情に、規律、敬愛が感じられて、凛とした彼等の精神がうかがえる。明治二十八年秋、子規は松山から奈良を回り上京する。松山で漱石と二人〝愚陀佛庵〟で同居し、再度の上京だった。その送別の席で漱石は友に句を送った。漱石は子規の余命が長くないのを案じていた。おそらく最後の旅になるだろう。その句は、見つゝ行け旅に病むとも秋の不二私はこの句を詠むたびに、友情というものの崇高さを思う。まさに峰 7 の風のごとくだ。ぐだぶつあん一九五〇年山口県防府市生まれ。八一年、文壇にデビュー。小説に『乳房』『受け月』『機関車先生』『ごろごろ』『羊の目』『少年譜』『星月夜』『お父やんとオジさん』『いねむり先生』『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』など。エッセイに、美術紀行『美の旅人』シリーズ、本連載をまとめた『旅だから出逢えた言葉』などがある。最新刊は、累計140万部を突破した大ベストセラー「大人の流儀」シリーズ待望の第6弾、『不運と思うな。大人の流儀6』。写真・岡田康且Shizuka Ijuin
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