SIGNATURE2016年08_09月号
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写真・西川克二 文・氷川まりこ2008年に、上方落語界の大名跡を襲名した五代目桂米團治。人間国宝として芸の頂点を極めた三代目桂米朝を父にもつ、上方落語界きってのサラブレッドだ。 「米團治」は、一門最高位の名跡を意味する「止め名」であり、師匠である父・米朝さえも名乗らなかった大きな名前である。 「落語の世界は基本的に世襲ではありませんし、なりたいですといって手を挙げたからなれるものでもない。私にとってこの名前は、降ってわいたというか、まさに天から〝降りてきた〟、そういう感じがするのです」自身の実力や努力はもちろん大切だ。だが、それだけではない予測のつかない力が働くことで、はじめて襲名は成立する。米團治の襲名も、思いがけないところからはじまった。2005年の林家こぶ平の正蔵襲名と前後して、落語がテレビドラマなどにも取り上げられ、東京は落語ブームに沸いていた。 「東京が襲名であれだけ盛り上がってるのだから、こっちも襲名で盛り上げよやないかと、ざこば兄さん(二代目桂ざこば)が言い出しまして。おまえ、なんでもええから大きな名前になれ、と。考えてみれば、ずいぶんと乱暴な話です」あれでもないこれでもないと、さまざまな名が挙がっては消え、紆余曲折の末に飛び出してきたのが、米團治の名前だった。先代(四代目)の弟子だった米朝が先代の他界後も米朝を名乗り続けたため、途絶えたままに半世紀以上が経っていた。そうして50歳を目前に五代目・桂米團治を襲名。京都・南座をふりだしに、全国約40回の披露公演、続いて三十数か所での記念公演。半年かけて77公演を行った。 「襲名は、自分のことではあるけれど、自分だけのものじゃない。準備期間もそうですが、いざ公演が始まってからも、日々、本当にいろんなことが起こりました」落語家支えてくれる兄弟弟子やスタッフと時にぶつかることもあった。その都度、膿を出し、互いのわだかまりを解消し、その繰り返しのなかで、どれほど多くの思いに支えられてこの名前があるのかに気づかされた。 「当初、実は先代のご家族の消息すらわからずにいたのですが、襲名の報道をご覧になった娘さんから手紙が届きまして。福岡のご自宅を訪ねると、先代の愛用の品々を見せてくださり、いろんな思い出話をうかがうことができました」そこには、父・米朝から聞かされていた師匠・米團治とはまったく違う四代目の人物像があった。襲名とは「まつり」だと、米團治は 面があるでしょう。と同時に、その本言う。 「興行として華やかな活気や賑わいをもたらすという意味での〝祭り〟の一質には、代々の先人に敬意を表し、その魂をねぎらう〝祀り〟なのではないかと、私は思うのです」五十数年ぶりに復活した「止め名」五代目桂米團治41写真・佐々木芳郎かつら よねだんじ|1958年、大阪市生まれ。父は落語家で人間国宝の三代目 桂米朝。78年、桂米朝に入門(芸名:桂小米朝)、同年初舞台。2008年、五代目 桂米團治を襲名。ミュージカルやクラシック音楽に造詣が深く、オペラと上方落語を合体させた「おぺらくご」という新分野も確立。上方の華やぎを大切に、真摯に古典落語に向き合う。http://www.yonedanji.jp/
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