SIGNATURE2016年04月号
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すとくいん崇徳院『小倉百人一首』77番17ColumnSignatureText by Terry GallagherPhotograph by Sadato ISHIZUKA『From the Country of Eight Islands: An Anthology of Japanese Poetry』佐藤紘彰、バートン・ワトソン(共編・訳)Anchor Books刊 1981年テリー ギャラガー|翻訳者。元・ロイター通信東京支局記者。芥川賞作家・円城塔のデビュー作『Self-Reference ENGINE』の英訳で、2015-16日米友好基金文学翻訳賞を受賞。浅田次郎、宮内悠介、山田詠美、島田雅彦などの作品を英訳。10年間の日本滞在を経て、現在は米マサチューセッツ州ケープ・コッド在住。 第12回文・テリー・ギャラガー 写真・石塚定人 「ポエトリー」の時代は終わったという人もいるけれど、詩というものは、ペースが速くマルチタスクが当たり前の現代にこそマッチするのではないだろうか。詩集を手もとに置いておけば、いつでも好きなときに少しずつ味わうことができる。 実は、最近ではインターネットの力によって世界中で詩がリバイバルしていて、ポエトリースラム(詩の朗読競技会)などのイベントが各地で盛んに行われていることからもそれがわかる。 日本では、はるか昔から詩という文学は珍重されてきた。私の一番好きな日本古典詩歌集は、古事記から高橋睦郎までを網羅した『From the Country of Eight Islands』という本だ。 この本は佐藤紘彰氏とバートン・ワトソン氏による共訳書だ。私がアジアに興味を持つきっかけとなったのは、ワトソン氏による唐代の詩人・寒山の詩集の翻訳本だ。たいていの翻訳家は母国語への翻訳を得意とするものだが、佐藤氏は長年ニューヨークに居住しており、母国語から第二言語への訳が実に巧い。本書は1981年の初版からいくつかの新版も出ている。 世界中のほとんどの人が、日本文学を日本語ではなく翻訳版で親しんでいる。翻訳者はできるだけ原作に忠実な訳を表現するよう努めるものだが、ぴったり同じということは不可能だとわかっている。日本語は翻訳されるとまたひと味違ってくる。たとえば、原作よりも言い回しなどがはっきりとしてしまうことが数多くある。日本語特有の曖昧さや微妙なニュアンスが翻訳では失われてしまうケースがけっこうある。 同書からひとつ例を紹介しよう。藤原定家の選による短歌である。 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 現代文に訳せば「岩にせき止められた滝川が二つに分かれても、またひとつの流れになるように、たとえ今(私たちが) Like a mountain stream whose rapids are blocked by boulders, though we broke up,in the end we’d meet again, I know別れたとしても、(私たちは)いつかまた必ず出逢うでしょう」となる。 英文だと「私たち」を二度も用いて文脈が成り立つよう補う必要があるが、原文では主語ははっきりと示されていない。また“Like”で始まることから、メタファーであることが一目瞭然だ。ところで、訳者お二方は過去形でこの詩を表現したが、この選択はどうだろうか?LIFE with BOOK1彫琢された和歌の英訳で知った日本語のニュアンス
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